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横綱昇進後も2場所連続優勝

横綱昇進後も2場所連続優勝。1962年(昭和37年)7月場所から1963年(昭和38年)5月場所にかけ最初の6連覇を成し遂げた。ところが、昇進している時はアイドル的に人気があったのだが、1963年前半はいわゆる「型のある相撲」を取っていた柏戸が不調で休場を繰り返しており、「型がない相撲」を取っている大鵬の一人勝ちのような状況になり観客が減少気味となり、大鵬の全盛期は大相撲の一時的な人気低迷と丁度一致してしまった。このため、この連覇直後あたりから神風正一など一部の評論家からは「大鵬の相撲には型がない」と盛んに批判されたりもした。
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その柏戸が再起をかけた1963年9月場所千秋楽では柏戸に敗北。この事について、石原慎太郎に一方的に八百長疑惑をかけられた(後に石原は謝罪)。1964年(昭和39年)からは本態性高血圧に苦しみだす事になる。1965年(昭和40年)5月には、柏戸や北の富士らと共に拳銃を巡業先のアメリカ合衆国から密輸入していた事が発覚し書類送検されたが、相撲協会からの処分は譴責処分にとどまった。[7][8]この直後の1965年5月場所は絶不調で9勝6敗に終る(なお、千秋楽は休場して不戦敗だった。横綱昇進後皆勤して10勝に届かなかったことはない)。

それでも、1966年(昭和41年)3月場所からは再び6連覇。1967年には肘を負傷し、その分を取り戻そうと稽古で無茶をし左膝靭帯断裂で1968年(昭和43年)3月場所から3場所連続全休し、同9月場所初日に栃東に敗れた時はもう限界かとも思われたが、慎重に勝ちに行った結果、叩きを多用するなど相撲内容は冴えないが、同2日目から1969年(昭和44年)3月場所初日の間に、双葉山(69連勝、最多連勝記録)には及ばなかったものの45連勝を記録(取り直し制度導入後では当時2位。後に千代の富士が抜き3位)。この記録は同場所2日目、平幕の戸田(後の羽黒岩)に敗れて途切れたが、ビデオ画像や写真では戸田の足が先に土俵を割っていた(押し出そうとして明らかに土俵の外に足を踏み出していた)ので、誤審であるとして問題となり、相撲の勝負判定にビデオ画像を参考にするきっかけとなった。

1969年9月場所初日、30回目の優勝(同年5月場所)に際して一代年寄「大鵬」が日本相撲協会より授与された。

現役晩年に至っても北の富士と玉の海に対して最後まで壁として君臨し続けた(北の富士・玉の海が横綱に昇進して以降の対戦成績は共に大鵬4勝2敗でリード)。引退2場所前の1971年(昭和46年)1月場所に玉の海を本割りと優勝決定戦の2番連続で降し32回目の優勝、同年3月場所ですら12勝と健在ぶりを示したが、翌5月場所栃富士に敗れ尻から落ちたことで引き時を感じ、5日目に当時上り坂の貴ノ花に寄り倒しで同じく尻から落ちる敗戦を喫すると引退を表明した。

引退後 [編集]
引退後は大鵬部屋を興し、関脇巨砲、前頭嗣子鵬らを育てた。現在は部屋を娘婿の大嶽親方(貴闘力)に譲っている。2000年(平成12年)に北の湖・千代の富士の一代年寄2横綱を率いて還暦土俵入りを披露した。

元々出羽海一門ではなかったため出世は遅いと見られたが、ここまでの実績を残せばそれなりの扱いは受けてもよかった。ところが、1977年(昭和52年)に脳梗塞で倒れてしまい、後遺症が残ったことで理事長などの重要職に就ける見込みが無くなってしまった。

一方でそのために協会に配慮する必要がなくなったこともあってか、大相撲中継の解説者として、人気力士、看板力士であっても手厳しく切って捨てる姿勢は好角家の好評を得た。

かつては酒量は一斗に達していたというが、これも健康を崩した原因と言われている。病気自体は不屈の精神でリハビリを重ねかなり回復した。かつて「巨人、大鵬?」と並び称された時代の一方の雄である長嶋茂雄が、同じ脳梗塞に倒れた時には、やはり特別な感情がわいたと語っている。

2001年(平成13年)にサハリン州(樺太)で父マルキャン・ボリシコの生涯が明らかになり、サハリン州の日本研究家の働きかけでウクライナのハリキフ市に大鵬記念館が建設されることになっている。大鵬自身もハリキフで相撲大会を企画しており、ロシアをはさんで日本とウクライナの国際交流の主役として脚光を浴びている。2002年にはロシア連邦・北オセチア共和国出身のボラーゾフ兄弟を日本に招き、兄のソスランを露鵬幸生として自分の部屋に入門させた(弟のバトラズは白露山佑太として二十山部屋入り、後に北の湖部屋へ)。大鵬はソスランの四股名に自分の「鵬」、名前にも本名の「幸」の字を入れ、期待に応えた露鵬は大鵬の停年後の2006年3月場所で小結まで昇進して部屋頭となったが、2008年9月にドーピング検査で大麻の陽性反応が出たことを理由として弟と共に日本相撲協会を解雇された。

また慈善活動にも熱心で、「大鵬慈善ゆかた」などを販売し、その収益を元にして、日本赤十字社に血液運搬車「大鵬号」を毎年寄贈している。相撲協会を退職後、この事業は貴闘力が引き継いでいる。

2005年(平成17年)に日本相撲協会を65歳の停年(定年)退職し、9年近く空席だった相撲博物館館長に就任したが、協会在籍中に理事長や執行部在任経験がなく(1期のみ審判部副部長を務めたが、脳梗塞をわずらったためにその後は退任し、地方場所部長の職が長かった)、先に停年退職していた理事長経験者の佐田の山と豊山が健在にも拘わらず館長職に就いたのは異例の抜擢と言われている。

朝青龍のよき相談役としても知られ、相手次第で取り口を変える、自身のような万能型の大横綱の道を歩みつつある朝青龍を厳しく、かつ温かく見守っている。また、朝青龍のサッカー問題など色々な意味で批判されがちの角界で、OBとして発言力を持つ一人でもある。ただ、露鵬の大麻問題では同じく渦中に巻き込まれた北の湖理事長と対応を協議する事態となった[9]。最終的に自分の後継者で娘婿でもある大嶽親方が責任を問われて相撲協会の委員から平年寄への2階級降格処分を受け、北の湖も理事長辞任となった。

なお、少年時代を過ごした北海道弟子屈町の川湯温泉の温泉街には、1984年に開館した川湯相撲記念館があり、化粧廻しや優勝トロフィーなどのゆかりの資料が展示されている他、名勝負・名場面などの栄光の記録と生い立ちから現在に至るまでの歩みとを綴ったドキュメンタリー映像を上映するコーナーもある。また、記念館の前には、彼の銅像も建っている。

2008年11月16日、11月場所中に開かれた相撲協会理事会で、体調不良のために2008年限りで相撲博物館館長を辞任することが承認された[10]。
2008年12月26日、日本相撲協会の仕事納めの日に相撲博物館館長職を退いたが、「たまには国技館に足を運んで相撲をゆっくり見たい」と相撲への思いは変わらないと語っ

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2009年03月31日 11:41に投稿されたエントリーのページです。

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